昭和51年06月09日 朝の御理解
御理解 第92節
「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」
今朝、御心眼にそれこそまあ宝石をちりばめたとでも申しましょうか、あんな時計は見たことがないですけど腕時計です。もうこれはまぁ感じですそれこそ正確無比の時計だろうというような時計を頂いた。それでまぁ今日はこの九十二節を頂いて、それとこれとを結び合わせてみるとどういうことになるかというと、いかに宝石をちりばめた時計であろうが、どんなに正確無比のいわば時計であろうが。
それを持つ人が守らなかったら、時間を厳守しなかったら、役にはたたないということです。汽車の時間が何時だと、よか時計を持っとるから汽車が待っとるというのじゃ絶対ないのですから。どんなに正確無比の時計を例えば持っておりましても、それを実行してはじめて汽車の時間なら汽車の時間にも間に合う。すべてのことにももういわゆる正確ということにもなるのです。
ですから金光様の御信心がどんなに素晴らしいの、正確無比の、まぁ世界の名教のと言うてもです。まぁここではならそれを取り次がせて頂く、金光大神のお手替わりをさせて頂く先生が、しだごだであったら、そこの教会には御ひれいは立たん、同じ金光様でも。いわゆる神様の前に忠実であって初めて、神様も忠実に御はたらきを見せ、また現わして下さるのである。だからこれはなら、道の教師とか、取次者というだけの事じゃない事が分かります。
信心させて頂く者もやはり正確な信心をすりゃ、おかげの方も正確に段々なって来るおかげが受けられなければ嘘です。そりゃもうきちっと信心を一日したから、一年したからということじゃないです。その人達に神様がもう狂わんもう大丈夫と、例えば思し召すところからです、いわゆる正確無比なおかげの受ける金光教として、金光教を本当に世界の名教として頂くことが出来るのです。
昨日、秋永先生のお導きで参って見える、ある銀行の支店長をしておられます。奥さんが時々ですが遠い所からお参りになります。息子さんが就職のことのお願いをしてございました。もう卒業だから。おかげで就職の方はいわゆるコネがあって、ある会社に務めることが出来る事になりました。ところが卒業間際になって、卒業できないということになりました。学業だけでなくてある他の問題もからんでおります。
そこで初めて、初めてじゃありません何回目かでしょう、お父さんもいっしょにあのうお願いにみえて、お伺いをされました。あちらのその大学のいわゆるコネを頼って、まぁそれこそまぁお金をいくら使ってもいいから、頼みに今から行くからとこう言われるのです。だから私が就職が先に決まっとるのですからね、あのうそりゃ心配いりませんよと私は申しました。だからお出られんでもいいですよと、念を押されてそのことをなら親も決心して、神様一心にお縋りするということであった。
ところが他の人達は卒業するごとなったばってん、この人だけがまだ未知数分からなかった。ちょうど二、三日前に卒業できたというて、昨日お礼にみえておりました。これなんかはどういうことかというと、本当にまだ合楽にお参りして、奥様は十回位参られたかもしれませんけれども、ご主人は確か二、三回位です。もちろん遠方でもあるし。けれどもこれは私の言う事を、まぁ一生懸命で守られた訳です。
よく皆さんがいいますね、親先生まかせになってさえおけばとこう言うでしょう。けれどもね、それを守ったり守らなかったりしよりますとね、あのうもう段々おかげは乱れてくるです間違いなく。そこは右であろうが左であろうがです、やはり頂きぬくというたら、なら神様のおおせにはそむかれんという生き方を、維持していくというところにです、神様がピシャッとそれに対するおかげが頂くはずです。
昨日研修の時に話させて頂いた事でしたけれども、昨日教報がまいりました。その教報の中にちょっとパラパラッとめくっておる中に、目に付いたところを読ませて頂いたんですけれども、ある方がこれだけは一生私には忘れられないということを、ある金光様の先生が書いておられます。というのは、ある時学院教師、何をしておられたんですかね高倉先生は。補導をなさっておられる小国の教会。高倉先生のお話しを聞いた事が忘れられないということが書いてありました。
というのはです、私は人に伝える話は沢山材料は持っておるけれども、自分に言い聞かせる教えというものを持っていない事に気づかせて頂いて愕然とした、取次者として。こんな問題の時にはこげんな風に話さんならん、こげな時にはこげな風にお取り次ぎせんならんという、術やら話やらは知っておったけれども、自分自身に言い聞かせる教えを持たなかった事に愕然とした。
以来なら高倉先生自分自身の心を納めていかれる教え、心情と言った様なものを私は正確に守っておいでられると言う様なところから、今日の小国教会の御ひれいがあるのだと思います。しかしこれも多くのお道の教師がね、本当にそこに気づかせて頂いたら素晴らしいと思うんです。まず教師自身が修まらなければなりません。信心しておる者自身がまずは修まらなければなりません。
教えのいうならば行者にならなければいけません。家のお父さんが家のお母さんが、お参りしよるけれども、どこと変わる事はない、変わるどころではない人よりもイライラもやもやする、人よりも嘘を言うとか、ありとあらゆるおかげの頂けない状態というものが、家庭でも平気に出されるなら、信心したっちゃたいした値打ちはなかたいということになるのじゃないでしょうか。
私はそういう正確無比の間違いのない、いうならば神様を頂いておるのですから、せめてここだけはと、みなさんの信心にこれだけは間違いなく、神様とのお約束がいうならばできておると。例えば教えをひとつ守らせて頂くでも、これは私の少年時代から続けておることですけれども、道を歩いとって穀物が落ちておったら、もう必ず押しいただいてポケットの中に入れた。これは食物の有り難いということを確かにお話し聞いて以来、私はだろうと思うですようと覚えんです。
けれども実行した事だけは事実です。段々長ずるに従って信心が少し分かるようになるにしたがって、段々いうならばこれだけはという教えが、身についていくということは多くなってまいりました。今はおかげを頂いて段々ありませんけれども、神様にお約束を致しました。万が一それができない事があります。そういう時にはいいかげんにしませんでした。もうお詫びのしるしに、いうならばすさまじい修行しました、お詫びのしるしに。その時分にゃ表行なんかもやっとる時分ですから。
けれどもおかげを頂いてです、もうここどのくらいでしょうか、今日改めて私その事を思わせて頂いたけども、神様にお約束をした事だけは、もうこれこそ一分一厘間違うてはならん、これはもういよいよ実行するだけではなくて、垢抜けして来てそれが自分のものになっていっておる事に気が付きます。あれもこれもということじゃありません。けれどもこれだけはというものです。
例えばなら私が四時の御祈念を頂くために、その三十分前に出てくる。四時の御祈念は一分だって切らんと言ういわば、これは私が四時の御祈念をさせて頂くようになって決めました。ですから四時の御祈念がやはりきちっと、いうならだんまりの御祈念ですけれども、一時間きっかりで終わらして頂く。久留米の中垣さんが、どうして親先生の御祈念は別に目安もないのに、時計も持っておられんのに。
きちっとして一時間で御祈念が終わるんだろうかと不思議に思ったら、何とかでしたかね懐中時計を見せられた。懐中ということは、おなかの中にいうなら正確な時計を持っておるということなんです。心中に間違いない時計を持っておるから、狂わんのだということなんです。そして分からなければならん事は、なるほど自分たちのおかげが、すっきりしたと言うか手違いのないというか。
おかげを受けられるのは、そういう人のお取り次ぎを頂いておるからであるということと同時に、自分たちのおかげが間違うてくる時には、それは自分自身の信心が言うならばしだごだだからということを思わなければなりません。しだごだということはもう無毛の地ということです。死んだ田ということです。もう種をまいても生えんという。ごだというのはめぐりの田だということなんです。だからしだごだになる。やはり信心には貫くということが大事です。
だからあれもこれもというていっぺんに、ならできる訳はありませんけれども、一言ずつでもこれだけは金光様の御信心を頂くようになって正確に守らせて頂いておる。せめてです、今日一日の教えにだけは本気で取り組んでおる。何とかそこにお互いが工夫がいる事が九十二節から分かります。ここではいうなら教会のひれい、または教師にたいするご理解だと思いますけれども、ならそれを今度は信奉者の皆さんが頂かれる場合でも、やはり同じ事が言えるのじゃないでしょうか。
昨日のご理解を、昨日の研修の時にいろいろに頂きとめております。ある人が失礼ですけれども、昨日のご理解は、「雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ。」というあの御理解だったが、今日の御理解は前の日の、いうならば親先生の一日のことを話されたようだったが、その御理解にピタッとこない感じがしまたとこう言われる。あの御理解にはピタッとこない、それからあのうまた頂きなおしました。
そしたらあの御理解にピッタリの親先生の一日であったということが分かったという発表を致しました。ある人はこれはもう親先生の名人芸だと言いました。幹三郎は私と一緒に行動を共にしておりましたから、もうそのつどつどにです、もう一生懸命の御祈念をしたと。例えばお湿りがありだした時には、折角みんなこうやって出て来ておりますから。だからその事を私は申しましたことでしたけれども、ならここで皆さんが大祓い信行を一生懸命なさるし、またその徹底を私も願っておるしまた言うてもおる。
その言うておる私自身はもう全然んら大祓いなんかはあげない。ということは私は祈りもなからなければ何もないけれども、ただあのう出たとこ勝負。雨が降ってきた、若先生がもう船に乗らんで料亭に帰りましょう、うんそうしようかとこう言う。降り止んできたから乗る、ならそうかというてまた乗るだけのことです。高橋さんが先導されて道を間違えられて、ぐるぐる田舎の道を回って時間がかかった。とても今日は田舎見学をさせて頂いたと、言う様な頂き方である。
3千円の罰金を取られるという事になっても、はぁどうしてそげな事になったかと言う事もありません。そらもうなら家から払わにゃいけないぞと。ところがあれは奈良の方で払うごとなるのだそうですね、昨日聞かせて頂いたんですけど。けどもそういうことの一言一言がです、一日を締めくくってみて、神様の一分一厘間違いのないはたらきというものをです、実感としてお礼が申し上げれる一日。
もう本当にこういう行き方を身につけたら、お徳が受けられるはずだということになって来るんです今日の御理解は。皆さん方でも御理解を頂きながら、その昨日伊藤君が言ってますように、今日の御理解は今日のあのう雨が降るから風が吹くからというあの御理解とは、ピタッとこない感じがなさった人があるかも知れません。けれども二度頂いてごらんなさい、もうこういう生き方が身についたら、もういよいよ腹立ちもなからなければイライラもない、人を責める事もない。
これはいうならば神様のご都合であると言う事になり、段々垢抜けして来ると幹三郎じゃないけれども、どうぞどうぞと言うて祈り、緊張すらもないと。それこそ高い所から低い所に水が流れるようなスムーズな一日。そして締めくくって、本当に神様の御守護の中にあるんだと言う事を実感する、日々がお徳を受けて行く事なんです。ならそういう例えばいうなら正確無比のおかげを、一日の上に頂きあらわさせて頂けると言う事もです、私がこれだけは神様の前に嘘いつわりはないという真実をです。
いわば努めぬかせて頂いておるから、おのずとそういう安心と言う様なものでしょうか、神様のはたらきというものを、段々信じられるようになって来るんじゃないでしょうかね。神様の前に嘘を言う、神様の前で言うた事がしだごだになる。もうそれだけでもそれ、こそ私がごたるとがおかげ頂くめというごたる気がおこってくるです。そりゃもう私のようなものでも、おかげ頂かれるという心に切り替えれば、おかげが受けられるんだけれども、さぁこのへんの所が実にデリケートです。
これも先日の御理解を頂いて伊藤君が発表しておりましたが、私のようなものでも助けて下さるという心と、いやとても私がごたるもんという、その二つの中を行ったりきたりしとりますということを言うたが、合楽でもみなさん同なし事が言えるのじゃないだろうかと。だからその私のような者でもということが、すっきり頂けるためにです、正確な信心をしなければいけないということです。どんなになら金光様が有り難いの、はぁ合楽の親先生の仰る事は間違いがないのと言うてもです。
頂く方の側がです、どういう素晴らしい時計を持っておってもそれを守らない、時間を厳守しない限りです、汽車にのりおくれた乗り遅れてから、こげないうなら立派な時計を持っとるけど、乗り遅れたち言ったって法にあわないでしょうもん。あんたが守らなかったからと言う外にないでしょうもん。だからあれも守れ、これも守れというのじゃない。段々信心が成長して行くに従って、段々神様の御教えというか、お言葉というか、生き方ありかたというものが。
その正確を目指させて頂いての、信心になっていかなきゃならないということ。ただ初めて一、二回参って来て息子のそう言う様な運命の岐路に立った時にです、お父さんがそれこそ神様を信じると言うたって、とても信じれと言う方が無理な位なんだけれども、過去においてお願いをしておかげ頂いてきたというそれ、たったそれだけが心の縋りだったでしょうけれども。わざわざ東京にもう明日から立たれるという前の日にみえたんです。けど行かれんでもいいですよ、お金をかけんでもいいですよと。
神様がそれ前にちゃんと、あのう就職の事まで決めておられるのですから、おかげ頂きますよって。ところがどっこい実際みんなが卒業する時出来なかった。けれどもようやく先日その通知を受けて、卒業する事が出来たと言う様にですね、始めの場合はそれだけを守っただけでおかげを頂くでしょう。だからこれは皆さんもお話しを頂きながら分からなきゃならん事は、もう自分は十年の信心、二十年の信心をさせて頂いておるのですから、もうここからここまで位は。
正確な信心が出来ておると言う様なものが、確かめられなければいけん。例えば私はおかげを頂いて、神様にいうならばお誓いをさせて頂いたと。もしそれが崩れた場合なんかはいうならば、それに代わるお詫びの修行をさせてもろうて、いわば元をとっとかんとと言う様な事でしたけれども、おかげを頂いてこの頃は、そういうことはもう忘れたようにございません。なぜって守りよるから。
いうならばお詫びのしるし。ただみなさんの場合にはそれがやっばりいるようなことはないでしょうか。あれほど神様に固く誓いながら、それをしだごだにしておる。それは丁度どんなに正確な時計を持っておっても、時間を厳守しなかったら、やはり汽車に乗り遅れるということなんです。今日はそのことを今日は教師、いうならば私共始めです、これを信奉者の方が頂かれるようなふうに聞いて頂きました。
どうぞ。